τι ή ίστορία;

記事の投稿が滞ってしまったが、一か月ほど忙しさと格闘していたというのは言うまでもない。おそらく、時間の使い方が下手なだけなのだろう。いい時間の使い方があったら、教えてほしい。

 

タイトルがギリシャ語なので、なんの記事なのだろう?と疑問に思う人もいるかもしれない。

これは日本語で「歴史とは何か?」という意味である。

Historyという単語の語源はギリシャ時代までさかのぼる。

それが、ίστορίαという単語だが、本来の意味は「探求」や「調査」の意味であったという。

ではなぜこれが歴史という意味になったのか?

それは、ヘロドトスの著作である「ίστορίαι」がとても優れた歴史書だったからである。

読み方はヒストリアーイで、一番最初の文字がiに見えるのに「ヒ」と発音するのは有気記号(hの発音を足すという役割)を含んでいるからである。

 

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ヘロドトスの胸像

 

そんな、彼は「歴史の父」として後世でも名が知られることとなる。

歴史という単語を作った彼をリスペクトしてあえてギリシャ語のタイトルにしてみた。(古典ギリシャ語のライティングはあまり自信がないので間違えている可能性が十分にありえる。特にアクセント記号。)

 

ここまで説明しておいて、今回の記事のメインはヘロドトスではなく、E.H.カー著作の「歴史とは何か」である。

 

歴史とは何か (岩波新書)

 

岩波文庫で出版されているので、興味があったらぜひ読んでみてほしい。

歴史とはなんなのか。それについての議論は意外にもここ200年で活発になった議論である。

そのような歴史学の祖となった人物で名高いのはオポルト・フォン・ランケである。

彼の著作の中にこんな文章がある。

ひとはこれまで歴史学に対して、過去を裁き、将来の役に立つように同時代の人びとを教育するという役目を課して来た。だが本書は、あえてそのような高級な役目を引き受けようとするものではない。それはただ、事実は一体どうであったのかということを示そうとするだけである

この記事の読者の中にも、「歴史はただの事実の積み重ね」と思っている人もいるのではないだろうか。このような事実偏重主義が19世紀の歴史学では蔓延していたのである。

しかしながら、E.Hカーがいうような歴史はこのような歴史ではない。

歴史とは、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。

この言葉が示すのは、「歴史というものは歴史家の解釈によってなりたっており、さらに新たな事実の発見などが歴史家に新たな仮説を考えさせる。」というたえまない相互的関係のことである。

すなわち、事実のみでは歴史足りえないのである。歴史家の解釈が必要なのである。

なので、時には自国に都合の良いような歴史解釈を行う歴史家もいる。

 

さらに、歴史的事実はとは社会との関係と不可分である。一人の人物が英雄の如く歴史を動かしているのではない。社会が生んだ、その社会を表象する代表が歴史を動かしているのである。

そして、歴史家ですら、社会と不可分である。

つまり、その事実をまとめた歴史家と事実との関係性もワタシたちは見る必要がある。

 

どんな規模であれ、歴史を専門とする人は歴史家だ。

そして、小さな歴史家ですら、情報を発信することができるインターネットがある時代だ。歴史が様々な解釈によって成り立っている。

 

歴史を学ぶということはただそれらの知識をたくわえるというものではない。

疑いの目をもって常にそれらに接し、自分なりに検証、解釈をするという学問の態度が歴史を学ぶということの前提にあるのだ。

教科としての歴史とはまったく違うものである。

受験で点数をとるという快感から目を覚ませ。歴史を学ぶということは面白い。