日本古典から見いだす1つの美徳
大都会を散策してみる。
その喧騒の中の幾らかの人々がブランドの服やカバンを身につけて歩いている。他方では、それらを求める列がある。どうやらその中には明らかに上層階級の人々ではない人も多くいるようだ。
これが、ボードリヤールの云う記号消費を行う社会である。
つまり、ワタシ達は商品に機能を求めているのではなく、ブランド、デザインといった記号的役割を求めるようになったのである。そして、中間層の人々でさえも記号的消費をする傾向になってきた。
ブランドになんの価値があるのだろう。そう思ってしまうワタシがいる。そして、何故だろう、ブランドものなどという嗜好品はワタシに合わない気がするのだ。背伸びして買う必要は無いように感じられ、ブランドの流行に心を悩ますのも無駄に感じられるのである。
流行なんて常に変わるものなのだから、たとえ流行に乗ったとしてもすぐに廃れてしまう可能性もある。
古代よりワタシと同じような気持ちになる人もいる。
鴨長明である。
彼は「方丈記」の作者として名高い。
その方丈が意味するのは、四畳半より少し大きい程度の家である。
・復元された長明の家
彼は様々な困難を人生で経験する。
跡継ぎ争いに敗れ、5度の災害に遭遇する。
他にも源平合戦の最中だったりと、様々な困難に直面するのだが、そんな彼が行きついた考えは川が流れるが如くの無常観である。
無常観とは、永遠に同じものなどなく、世界を変化してやまないものだと見る思想である。
その思想は、長明の家選びに現れる。
この時代の都の人々は、災害や福原遷都などがあり、家はすぐに壊れていたのにも関わらず、貴族から一般の人々まで都会に争うが如く家を立てていたのである。
然しながら、長明は度重なる困難により社会からはみ出してしまい、そんな都生活に恋い焦がれる人々が資金を多量に積んで家を建てることを愚かに思うのである。
そんな自分の身の丈にあった家。
それは上に示した通りの「方丈」なのである。
原文:
かなむは小さき貝を好む。これ事知れるによりてなり。みさごは荒磯にいる。すなはち人を恐るるがゆえなり。我またかくのごとし。
現代訳:
ヤドカリは身の丈にあった家、小さな貝を好む。みさごは人を恐れるので、荒磯にすむ。私もちょうどそれのようである。
もちろんながら、その生活も身の丈に合ったものにするのである。
冒頭の話に少し戻るが、無常観にあてはめれば、そのブランドを着る自分自身の美しさというのが永遠であるということはあり得ない。人生を通してそのような愚かなことに腐心し続けると、身の丈に合わなければ疲れてしまうのではないだろうか。
身の丈にあった生活をする。
鴨長明以外にもこの生活に美徳を感じる人はたくさんいる。そして、なかなかの合理性を帯びているのである。
自分の身の丈とはどの程度なのだろう?
この機会に皆さんも一度考えてみてほしい。