〇〇は死んだ ~何に重きをおいて生きるのか~

こんばんは、最近は多忙がゆえに初投稿から日が開いてしまったのは申し訳ないと思う。

多忙で物事の進捗がよくないこと、皆さんは仕方ないと思うかもしれない。然しながら、ワタシのブログ更新はある種の知的営みのトレーニングといえるので、「多忙」とひと言で片づけるのは自分のトレーニングにならないし、無気力になにもせず、自己成長を止めてしまうというのは非常にもったいないと思えるのである。

花村太郎著、「知的トレーニング」の技術〔完全独習版〕(ちくま文芸文庫)を最近読んでいる。

 

 

この本でも述べられている通り、学びというのは継続することが大切なのであり、そのために習慣化が必要なのである。明治時代を生きた森鷗外のライフスタイルは習慣化の極致に至ったものだと思う。

 

上記の本の森鴎外のライフスタイルに学ぶことより抜粋:

ゲーテの影響を強くうけた日本の森鴎外も、毎日持続する、という方法で語学や仏教や哲学をマスターしていった。終生高級官僚だった鷗外は、役所からもどった数時間をフルに利用して、あれだけの量の、小説、評論、科学、医事・軍事論文、『即興詩人』『ファウスト』のような翻訳等を執筆したわけだ。彼の生涯で全執筆量を単純に割ると、一日平均、原稿用紙(四〇〇字)三枚書いた勘定になるという話を、たしか息子さんの文章で読んだ記憶がある。マルクスのいう”生理的必要時間(睡眠)”を最短(三~四時間位)に切りつめるだけでなく、生活必要時間(洗面・食事等)も節約して、役所関係の仕事は通勤電車の中ですませる。

 

鷗外は、知的好奇心をしてこれほどまでに生活習慣を削りせしめたのである。

知的好奇心あっても、ワタシにここまでできるかはわからない。

「学んだことをまとめる」ここまで習慣化することを目標としていきたい。

とりあえずは記事の投稿に毎日至らなくとも、その下書きを書くということは習慣化していきたい。

鷗外は上記の通りであるが、皆さんは日々をどのようにして過ごしているだろう?

昨今、ワタシが感じられることは無気力に日々を過ごす人々が大量にいることである。

“神は死んだ”

このニーチェの言葉を知っているだろうか。

中世からは神に人生の意味を見出していたワタシたちはそれに価値を見出せなくなってしまい、ニヒリズムの状態に陥ってしまっているということをこの言葉は示している。

 

宗教から少し遠い存在である日本にいるワタシ達には共感ができないかもしれない。然しながら、昨今、ワタシ達は宗教はもちろん、労働、学業などに価値を見出せず、無気力、無思想的に生きる人々(ニヒリズム状態)によく遭遇する。

 

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暇の概念の変化は、現在のワタシ達がいかに消極的ニヒリズムの中で暮らしているかがわかる。

ギリシャ時代はスコラ(scholar)と呼ばれたこの単語は暇という意味を持っていた。然しながら、その単語はschoolの語源であり、その時間に人々はなにかしらに価値を見出し(学問、音楽など)、自己成長の時間としたのである。それに比べて、現代人にとっての暇はただ無気力にダラダラするという時間になりがちである。さらに、ワタシ達を受動的にさせるメディアは、それを助長しているように思える。

 

 

では、ワタシ達はどのようにしてニヒリズムが蔓延した現代を生き抜けばいいのだろう。

ニーチェは一つのヒントをくだしてくれた。

 

積極的ニヒリズムに活路を見出すことである。

 

ニヒリズムをうけいれながらも、何か自分で価値が見出せるものを見つけ、

 日々を懸命に生きること。

 

言の葉に価値を見出し、何かを語る。

受動的になりがちなネット上であるが、発信し続けることで自分を能動的に変えていく。

そんな活動が楽しい。

皆さんも偉人伝や哲学者に自分の生きるヒントを求めてみてもいいかもしれない。